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太平洋のごとく、広くて、深い

社外取締役 中嶋 誠 (元特許庁長官 弁護士)

1.今でこそ「チザイ」と言えば、「知財」だろう。しかし、36年前、チザイは「地方財政計画」(毎年度予算編成に際し、大蔵省と自治省で作成)のことだった。1988年、当時の通商産業省産業政策局に知的財産政策室の看板が掲げられ、初代室長を拝命した。何をやるのか。知的所有権(特許権、実用新案権、意匠権、商標権、著作権など)と違うのか。企業が多大の資金、労力、時間をかけて作り上げた成果であり、絶対的、排他的な所有権というより、経済取引上、法律的に保護されるべき知的な財産のことだと説明。(あえて「知的財産権」政策室とはせず。省内では財テクの研究をするところかとの声も。)

当面まずは、GATTウルグアイラウンド交渉の中で、知的所有権の貿易関連の側面(当時の政府訳)で議論されている「財産的情報proprietary information」=トレードシークレット(以下TS)にどう取り組むかが差し迫った課題だ。

2.ところが、米・EC(現EU)の草案にのっているTSといっても一体何のことかよくわからない。例えば、秘密で管理している技術的ノウハウ。他方、顧客名簿等の営業情報も含まれる。米・ECは、特許権、商標権等とともに、TSもその侵害に対し、差止請求、損害賠償請求で保護すべきであると主張。アジアなど発展途上国に対して共同して働きかけるべく日本に同調を迫る。日本政府の中では、特許庁、文化庁、関税局(水際措置)らいずれも自らに関係なしとして、いわゆる消極的権限争議。本当は全産業に関係する話なのに。

 仕方なしに通産省代表として、米USTRとの交渉に出席すると、

・まず日本はTSを保護しているのかとの問いに対し、保護していると回答。
・米には連邦TS法(モデル法)があるが、日本はどのようにして保護しているのか?→民法709条の不法行為責任で損害賠償が認められる。
・709条では差止請求は規定されていない。→個別の案件に応じて、裁判所は差止請求についても適切に判断するであろう。
・判例はあるのか。→今までのところまだない。
・日本は成文法の国である。今のままで裁判所が差止を認めるだろうとなぜ言えるのか。
・民法を改正すればよいではないか→(法務省)民法を改正するには法制審議会に諮問して10年とか長期間を要する。非常に難しい。
・米は憲法も必要に応じて何回も修正している。→(法務省)・・・・・・

3.ウルグアイラウンドは伝統的な関税引き下げ交渉だけでなく、TRIP(知的所有権)、TRIM(投資)という新分野までスコープを広げていることが大きなポイント。これらの分野で先進国が協調して、途上国と交渉していけるかは決定的に重要。このままでは日本はもたないとひそかに思った。はやく国内産業界と意識涵養、具体的な制度設計に取り組まないといけない。時間との勝負だ。

4.産業構造審議会の財産的情報委員会(中山信弘委員長)で産業界(役員レベル)、学界、関係省庁の代表に審議してもらう。同時並行的に実務者(特許部長)レベルで意見集約してあげていく。知的財産分野のマックスプランク研究所を念頭に、内外の情報収集、産学官の交流の場として、知的財産研究所の設立を目指す。このためにも、主要業界団体、企業のトップに問題意識喚起の行脚を行う。当方のポイントは、21世紀に向けて、知的財産の重要性を訴えること。反応としては、様々。例えば、「特許の話ですね。ご心配なく。当社はしっかり特許出願に取り組んでいます。昨年も前年比◯◯%増で・・・。同業他社と比べても・・・。」

→特許はもちろん重要。しかし、単なる出願件数競争は研究開発の手の内をみせるだけで意味なし。まずは出願すべきか、TSとして社内で適切に秘密管理していくべきか、しっかり判断することが肝要。出願するからには必ず登録査定されることをめざす。

 当初、TS保護について、IT業界からは米の陰謀ではないか(日立・富士通vs IBM)との懸念の声もある一方、自動車、鉄鋼は中立、化学、薬品は積極的とまだら模様であった。喧々諤々の意見収斂の結果、TSの定義、違法な侵害行為類型の明確化に努めることなどを条件に民事上の保護措置を導入することで、おおむねコンセンサスが得られた。具体的にはドイツを参考に不正競争防止法を改正し、明文の規定をおく。
 省内では、不正競争防止法とは何だ?どこの所管?法務省?公正取引委員会?実は通産省です。担当課はどこ?全文カタカナの戦前の法律で、ほとんどの人は読んだこともない。
 その際、勿論、刑事罰の導入、訴訟手続きにおける秘密保持措置が課題として残っていることは重々承知。しかし、今は救急車が出動する事態。時間との勝負で駆け抜けることを最優先とした。

5.当時、一連の作業で強く感じたことは、知的財産の世界で日本の産業界が保守的なこと。

欧米から糾弾され、被告の立場に立たされることをまず想定する。しかし、実は既に韓国、中国等の激しい追い上げにあっており、国内でもTSが従業員、退職・転職した従業員から漏出し、裁判で争われるケースもでてきていた。
 あれから36年経ち、昨今では毎月のように、新聞の社会面で、国内企業間のTS関係の不正競争防止法違反事件がとりあげられ、刑事罰も導入され、厳罰化されている。判例も積み重なってきている。世界的にも途上国を含め、TS保護の制度整備が進んでいる。
 これからも新たな知的財産の類型が出てくることもありうるし、その際不正競争防止法が活用されることもあろう(例えば「限界提供データ」)。
 法律制度は、世の中の急速な実態変化に対応するのに遅くなりがちである。新しい制度を導入しようとすると必ず反対論も出てくる。それを押し切って制度改革を果敢に断行しないと世界に後れを取ることになる。
 21世紀、知財の世界はAIを活用しながら、特許の世界と非特許の世界でそれぞれ制度設計・運用の整合化が進むであろう。企業の知財戦略も、ますますオープン・クローズ、特許・TSの複眼的なものとなろう。

 知財の世界は、太平洋のごとく、広くて、深い。

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